木田が訪ねた借家。有島宅は豊平川右岸側にありましたが、現在は「北海道開拓の森」に移設しています。下の写真は、現在の豊平川です。
★小説家、有島武郎との出会いから、木田金次郎が画家として生きた姿を、山田昭夫著書「有島武郎の世界」の第2章から、少し引用して想像したいと思います。(山田氏は札幌在住で、藤女子大学の教授でもあった文学研究者、有島武郎研究の第一人者といわれています。 平成16年に死去。)  木田金次郎は、有島武郎の小説「生れ出づる悩み」のモデルともいわれています。

木田が17歳の時、札幌の豊平川付近を散歩中に、偶然に有島宅を見つけました。有島が出品していた絵を観て衝撃を受けていた木田は、なんとかして、自分の絵を見てもらいたい。木田は数枚の絵とスケッチをもって有島家を訪ねます。当時、有島は現在の北海道大学の英語教師で、美術部サークル「黒百合会」の顧問をしていました。この「黒百合会」の活動は、札幌はじめ、北海道の画家たちに影響を与え、洋画の時代の流れと相俟って発展し、主導権をもっていた歴史があります。


●「有島は、金次郎が恥ずかしげに差し出す絵を一枚一枚ピンで止めたり、立てかけたりして、じっと眼を注いだ。 そして、<個性的な見方をしてある>(先生を憶ふ)と、率直にほめた。やがて夫人の安子も座に加わった。」・・ 「有島の言葉に、やってゆけそうだ。」・・二人の対面は、ある測りがたい力の導いた運命的な出会いであったというべきである。 (「有島武郎の世界」第2章:114〜115頁)

●有島は、小説「生れ出づる悩み」の「印税がまとまると金次郎にフランス留学を薦めたが、金次郎は初一念は変わらなかった。・・・金次郎は再々
有島の経済的援助を断ったが、素描展開催の厚意は受け容れた。」(同、122〜123頁)

●フミさんは金次郎の 「余りのむさ苦しさに身の回りの世話を申し出ると<それじゃ結婚してくれ>と切り出されたという。貧乏と年齢差でフミの一族はこぞって反対した。だが、フミ自身絵をたしなみ、金次郎の作品に打たれていたので意を決した。
さすがに金次郎は年齢差に気がさして、46歳だと偽っていた。(金次郎50歳、フミが26歳に結婚)。結婚一と月後、それを配給米の通帳によって知ったフミは、がっくりして数日床から起き上がることができなかった。その時、金次郎は<ピカソを見給え>と言った。」 (ここで、吹き出してしまいました。世間の常識枠にハマらない、金次郎の一面もあるようですね。それにしても男性の方々は年齢を都合に合わせて公言をするのが得意のよう。)
(同131頁)

●金次郎は岩内町で7回も、借家を移り住み、家賃も払えないほどの困窮。(有島も、札幌で住まいを転々としていましたが、昔の芸術家は定住しない多分、マンションもないし、家を建てるのが大変だったのでしょう。)
 「金次郎の生活が安定したのは、岩内町文化賞(昭和25年)の翌年あたりからである。次いで第六回北海道文化賞(昭和29年)と第十一回北海道新聞文化賞(昭和32年)を受けた。再三、華々しい脚光を浴びたのだが、しかし金次郎の生活姿勢は不動であった。

●昭和29年の岩内大火の時、「持ち出したのは、描きかけの作品若干、有島武郎の書簡と著作、有島家の人からのいただき物だけであった。
(同133頁)

●昭和37年の朝日新聞社主催で「木田金次郎新作展」の巡回展。 「札幌では同時に隣り合わせの会場で「有島武郎遺作展」が催された。
これは、金次郎の最後の個展となっただけに意味深く思われる。」(同138頁)


 和紙を素材に、描いてみました。(F10号:持ち歩きが可能な大きさで作っています)

 ある日、出会いが起こり、その人の人生に彩りを添えていく、それは、いただきもの。今回はそんなイメージをテーマに作ってみました。



「これほどにも私を郷土と郷土を描く仕事にむすびつけたものはなんだったのだろう。
それはいうまでもなく有島武郎とのめぐりあいだった。
「生れ出づる悩み」に描かれた通りの有島との交流が
当時の私に、世に隠れたひたむきな画家として
生きる道を決めさせたのだった。」

    (「KIDA KINJIRO」図録より)


北海道の岩内町、漁港で生まれた木田金次郎は、今年が生誕120年です。

生誕120年を迎えて特別展
<木田金次郎「第一回個展」の頃>が開催されています。
  
  (7月4日〜11月4日まで。岩内町 「木田金次郎美術館)
 

「或る日」