<つづく>
<もどる>

<写真家横木安良夫氏のサイトから引用します>

篠山紀信事務所に弟子入りし、2年ほど高橋fと一緒に学んだ。高橋fは北海道出身。料理が上手く、歌が上手で北島三郎の「函館の女」を、酔っても酔わない時も歌っていた。200793日に亡くなった。開高健は58歳に亡くなり、高橋も58歳で亡くなった。気が合った開高は高橋を可愛がっていたが亡くなってから、高橋は元気がなかったが、悲報になった。(病死)

上京した高橋fは、篠山事務所から独立してフリーの写真家として活躍し、開高健とは10年以上の同行撮影した写真家である。また「技術と人間』の雑誌、編集長としても社会に警鐘を発信している」 

★高橋fは、開高健に同行し撮影した多くの写真と旅の暮らしを、小説家の意外な素顔を温かい眼差しで書いています「旅人開高健」20056月 つり入社発行)
また、高橋fは梅若六郎が舞う能に出会います。能百舞台のあとがきに、「日本の国や日本人を探し求めていた『ヒト』とは何なのか、三問四方の能舞台を見て判りかけてきたように思う。梅若六郎に出会えていなければ私は、まだ迷い続けていたであろう。・・この本を見てもらえたらとの一番の思いは故開高健先生である。亡き父である。この世で出会えたすべての人と、あの世で再び会える全ての人にありがとう“の思いをこめて。」

(「五拾六世 梅若六郎 能百舞台」―何処(いずく)より何処(いずかた)へ― 237頁)

物語の舞台は、源義朝が合戦に敗れ都落ちする美濃国の宿での出来事です。次男の朝長が膝を射られて重症になり、父一行の足でまといになると自害しました(16歳)。宿の女主人は朝長の自決を哀れに思って弔い、僧を宿所へと案内しました。供養をしていると僧の目の前に、朝長の姿が現われます。

 

「萬の女人を生々の母と思へとは」

 仏の教えを体得できた今、私の後生もご安心下さい、と言う一方、未だ修羅の苦患に苛まれている朝長です。

その朝長が舞う場面を再現しました。再現の画像は、p10号の大きさで和紙を素材に描きました。

「五拾六世 梅若六郎 能百舞台」―何処(いずく)より何処(いずかた)へ―。写真家高橋 fの能舞台の撮影より。

19961030日 第一刷 集英社発行)

★東京事務所で高橋fさんのお譲さんが著作権などの管理をされています。梅若六郎の舞を高橋fが撮影した舞台を再現させていただきました。未熟な作品で大変申し訳なく思っていますが、快くご配慮をいただき心から感謝を申し上げます。

題目:朝長
ここでは、能の物語を間単に紹介します。
和紙で「能」場面を再現